Asia Cup 2004

Sunday, February 24, 2008

ECR 2008 Coming Soon

「ああ、けれども
それは遊びぢゃない
暇つぶしぢゃない
充ちあふれた我等の余儀ない命である
生である
力である」
―「人に」高村光太郎「智恵子抄」より


命が輪廻するように、360度が0度になるように、そして日が明日また昇るように。室戸文明が指摘したように、日常とは「強固なロジックの無限の反復」と言える。2007年のウィーンで起きた事柄を綴り始めて約一年、すでに次の会合が目前にある。今年の参加はいささかアンニュイである。放射線医学へのサイエンティフィックな興味が白みながらも応募した抄録はあえなくリジェクト、大義名分は「最新の知見を得る」ということでどうにか成立した。余りにまばゆい去年の経験に比べれば隈があるのはいたし方のないこと。それでもなお私は古く苔むしながらも人を魅了せずにはおれないあの中欧の都市へ、今年も旅立つのである。

Sunday, February 17, 2008

2007 European Congress of Radiology 参加全記録

"Wien, Wien, nur du allein sollst stets die Stadt meiner Träume sein"

Rudolf Sieczynski (1879-1952)


「わが夢の街ウィーン」

2007年3月、例年の如くウィーンにてECR (European Congress of Radiology) は開催された。本記録は参加二回目の中堅放射線科医が記す旅行記である。

(出立編)2007.3.7 日本-2007.3.7ウイーン

旅の契機はいつも茫漠としている。人の生きる様は常に流転しており、生きることとは即ち旅をすることであるとも考えられる以上、その中の一部を「旅行」として切り分けることにどれだけの意味があるのだろうか。また、そんなことは真に可能なのだろうか。今回の旅行は学会参加という大義あれども、旅の本質から逃れることはない。そして、それは遥か昔から決まっていたようにも思えるしランダムなブラウン運動の如き混沌から偶然生じた移動のようにも思えるが、ともかく公式には2006年11月24日の抄録採択の通知をもって決定された。

具体的な旅行計画には紆余曲折があった。当初オーストリア航空による直通便による往復、宿泊は勝手知ったるK+K Palais を予定し、旅行代理店を通し予約していた。ところが直前になってM-仮に蘭とする-が同行することになったため計画を変更することとなった。蘭について言及するにはかなりの紙幅を要するためここでは省略するが、数年来恋愛関係にある女性である。同行決定に至るまでもひと悶着があったが、私にとっては生涯最高の伴侶のように思えるとても魅力的な人物である。すでに直行便の空席はなくなっていたため代理店と相談の上エールフランスのパリ経由便に乗る運びとなった。宿については本来「二人部屋の一人使用」というカテゴリで予定していたため宿泊人の追加にはおそらく障害がないと判断した。

出発の前日は深夜までかかって仕事を片付け、変換アダプタ等を夜中のドンキホーテで購入、慌しく就寝した。睡眠時間は少なかったがどうにか目覚めて成田行きの電車に飛び乗った。余談であるが朝食にはコンビニ弁当ながらシシャモ、納豆、炊き込みご飯、ほうれん草の和え物など完全に和風のものをセレクトしたことを記す。蘭とはほぼ同時刻に空港で落ち合うことができた。飛行機のチェックインカウンターを探すのに少し手間取ったが無事に済ませた。飛行機の離陸を見ることのできる明るく開放的な店で、そばを食べた。飛行機が苦手な蘭は少しナーバスになっている。旅行保険の手続きを済ませた後、前日ドンキホーテで購入したトラベルミンを手渡した。

出国審査の際に、花粉症対策のマスクを取って顔を見せるよう言われ、ひょいとマスクをずらしすんなり通過。蘭はすでに向こう側で待っている。国内にあって国内ではない場所に。時間もないので指定搭乗口へ直行、飛行機に乗り込む。飛行機入り口のすぐ手前にはルモンドなどの仏語新聞が並び、スチュワーデスは "Bon jour" なんて乗客に挨拶している。通過するだけだが、パリ行きの飛行機に乗るのだと実感。ついに出発だ。

(往路;機上から宿まで)

私と蘭の席は中央三席並びの左翼二席分、右翼の一席には仏人と思しき男。気を利かせてくれたのか、すぐに一列前の席へ移動してくれた。後に座席モニターが不調だといって戻ってくるのではあるが。そこで機長挨拶、仏語と、仏語にしか聞こえない英語での挨拶の後、輪をかけて怪しげな日本語で挨拶。「搭乗アリガトウ」はねーだろ。お前は三流ロッカーか。

搭乗したエールフランスの機体では一つ前の座席ヘッドレスト裏に小さなモニターが埋め込んであって、それにより乗客は映画やゲームなどを楽しむことができる。ゲームをやるにはアームレストからファミコンのコントローラーのようなデバイスを引っ張り出す。映画の選択なども同じコントローラーかモニターに触れて(タッチパネル式)操作を行う。

以前の経験から、蘭は離陸時に不安が強まるようだったので、手を強く握った。これは嫌がられたが。また、すぐに出入りできるよう通路側の席にいた私と席を交換した。あまり表情には表れないが、少なくとも落ち着かない様子であったのは感じ取れた。指は長く官能的な手をしており、私のほうにはまた別のさざ波が僅かに沸き起こってはいたがそれは内緒にしておこう。飛行が安定し、シートベルト着用サインが消えた後しばらくして絵葉書のような機内食お品書きが配られ、その頃には多少リラックスしていたように思える。

蘭との会話の詳細は覚えていないが、二日目訪問予定のスロヴァキアやその後のウィーンでの観光予定などをガイドブックを交え話し合ったように思う。やがて座席モニターでの映画が始まるわけだが、どういうわけか私と欄の席のモニターは調子が悪く、上映中にしばしば中断した。機内アナウンスの時には中断するようになっている設定なのだが、それ以外のときも、しょっちゅう切れた。周りを見渡すと継続して映画が見れていたのだが、私たちの席の機械は調子が悪かったのだ。

話は少し戻るが最右翼の男はそれが調子悪いことにクレームをつけ、ついにはスチュワーデスが3人も集まる大問題へ発展していた。私たちのように、一般的な日本人なら受忍するところだが、彼らは少し違う。それでも私は少しだけ我慢して途切れ途切れの「父親たちの星条旗」鑑賞に勤め、蘭はカジノ・ロワイヤルを見ようと努力していた。やがてそれにも飽き、私が読書に没頭しつつある頃蘭はゲームに活路を見出していた。昔のパックマンのようなゲーム、倉庫番のようなゲーム、「ぷよぷよ」に似た球体落としゲーム・・などなど。ゲームに夢中になっている蘭の横顔を見て改めて可愛く思えた。やがて私も蘭も半覚醒から熟睡状態のはざまを彷徨し意識は途絶えた。

ふと目覚めるとモスクワ近辺まで到達していた。ワイン、ビールなどの飲み物やカップヌードル、サンドイッチなどは自由に注文できたのでその点では不自由がなかった。小腹が減ったのと、おそらくもう機内食はないであろうという見込みから(実はもう一食あったのだが)、カップヌードルシーフードを頼んで二人で食べた。「トリビアの泉」によると仏人シェフが認めた味、状況が状況だけに染み入るような美味しさだった。ついで機内でEU外のヒト向け入国申請書が配布された。入国申請書の項目がわかりづらく二人とも思い思いにいい加減に書きなぐっていたところ機内誌に書き方例が載っていることが判明。もっと早く教えてよ、と思いつつ書き直す。続く数時間、さらに浮遊するような時間を経てついに飛行機は現地時間17時頃、パリ・シャルルドゴール空港へ到達したのだった。言い古された形容であるが[花の都パリ]というフレーズが思い浮かんだ。今いるのはパリ中心部からすごく離れた郊外だが。


チューブ上の通路を歩いて入国管理官のブースへ。黒い制服を着込んだ彼らの背中と右胸には"police"とあり、腰には軍用拳銃のようなブツを装備している。各ブースはEU国内人とそれ以外向けのように分けられていたが、しょっちゅう人が出入りしてそのような区別はあってなきが如しだった。よくわかってないどこかの国の中年女性がうっかりブースを通過しようとすると「マダーム」なんて呼びかけられていた。ほんとにマダム、って呼びかけるんだなあと少し感慨深い。二人とも無事に入国チェックを済ませロビーへ。蘭がトイレへ行ってる間に妙なヨーグルト飲料を購入、彼女に怪訝な顔をされる。パリ発ウィーン行きの便へは少し時間があったので空港内を散策した。


少しぼけ気味な頭で空港を歩いていると、軍服を着て自動小銃をぶら下げた兵士二人が向こう側から歩いてきた。ぎょっとしながらも歩いているとまたもや同じような格好の女性兵士が談笑しながら歩いてきた。これがこの空港の通常警備なのかと思うと少しぞっとした。
その後 SWATCH の店やVirginストアなどを冷やかしながら時間をつぶす。Virginストアでは"Manga"と題したパンフレットがおいてあって、週間少年マガジンなどで見知った絵が。これは記念になると思い保存分も含めて二冊とるため蘭にも渡すとどうやら怒らせてしまった。その理由について思い当たる節がないでもないが、予想外ではあった。そうこうしているうちに時が満ちウィーン行きの飛行機に乗るため搭乗口へ。黒人が仕切る搭乗口で並ぶこと約20分、上着からベルトから蘭から誕生日にもらったD&Gのキーチェーンからみんな取っ払ってようやく通過できた。そこから二連結バスに乗り飛行機へ。車内ではすでにドイツ語が飛び交っていた。車窓からは赤紫の美しい夕焼け、バスから降りたところでカメラ撮影をしてみた。少しして女性の職員から咎められ撮影は中止。ああ、そうだった。ここは自動小銃を装備した兵士が警備する空港、セキュリティは厳しいんだった。

ウィーン行きの飛行機はシートがゆったりしていた。心なしかスチュワーデスの服装もオーストリアっぽい(その、赤さがね)。ここでも機内食が出て、ハンバーグのようなものを食べた。パンも配っていた。食事のパッケージは絵葉書調であった。少し戻る形でパリから東へ約2時間、ついに目的地たるウィーンへ到着した。ウィーンの商店は一般的に夜は閉まっているが空港も例外ではない。人がまばらな空港を歩き、荷物受け取りへ向かった。無事に着いたトランクケースを受け取ったのち市内行きのCAT乗り場を目指した。蘭はそんなことめったにないというが、私は去年の経験からトランクが無事に着くかどうか不安であったため荷物を受け取ってようやく一息つけた感があった。そこを抜けるとECRのブースが設置してあり、係員が応答している。かなり高い登録料を取るだけあってサービスは充実している。

CATからU-bahn Wienmitteまで9E、でかい車体に乗り込んで約20分。Wienmitte でビールなどを購入。犬を連れた短髪・迷彩服の若者が4人ほどいてもしやネオナチか??などと内心警戒していた。結局は何事もなくU4で接続してSchweden platz 駅へ。ふつふつと去年の記憶がよみがえる。Schweden platz を降りるといくつかのWuerst(ソーセージの類)などを売るスタンドを通りかかる。このソーセージはとても美味しいので、蘭にも食べてもらおうと思い怪しげなドイツ語で購入、少し行き違いがあり、大きなパンつきのホットドッグ。それでも中身は本場のそれ、宿に着く少しの間二人でほおばりながら歩いた。すっかり星空となっていたがその日の晩は特に星が綺麗に見えた。一人で見上げるのと二人でいるのとではこんなにも違うのだ。

宿に着くと、夜間のフロントはインド人のようであった。去年このホテルに宿泊したときも、朝食のウェイターはアジア系であった。これらの例に見るように、オーストリア滞在中、飲食店等のサービス業で外国の従業員を見かけることが多かった。オーストリアには外国人労働者が多く、EU加盟候補国からの労働者受け入れ数はドイツと並んで高い。まずは、一人から二人への変更と、それに伴う料金の変更について聞くと日本円にして5万円ぐらいの値段を提示してきた。それは許容範囲内であったので、許諾し文書による記録を要求したところその値段の正当性、国連関係の宿泊者数増加が背景にあると主張し拒否された。なかなか抜け目のない奴だ。チェックアウト時に追加料金を払う必要がないことが明らかになるのであるが、それは後述する。蘭も本来二人部屋を一人使用で余計な料金を旅行代理店へ払っているのに、追加料金が発生するのはおかしいと疑問を呈した。全くもって正論である。

このような手続きを経て、ようやくウィーンでの床に就く。蘭の用意による湯につかり、ベッドへ。蘭と肌を重ね、登りつめた後に二人の時間が止まった。こうしてウィーンの初日は過ぎていった。

(中欧・スロヴァキアの空気)2007.3.8

明けて翌朝、蘭と一緒にホテルの朝食ビュッフェで食事をした。去年も見かけた東南アジア系ウェイトレスが来てコーヒーか紅茶かを尋ねる。このホテルの朝食ビュッフェの品揃えは毎日同一だ。ウィンナー、スクランブルエッグ、ベーコン、チーズとパン(トースターも設置してある)、シリアル、果物、パプリカと胡瓜、マルチビタミン・アップル・オレンジのジュース。そしてなぜかシャンパンも用意してある。ものはしっかりしていて朝のエネルギー補給には最適だ。私と蘭、おのおのこれらを取ってきて席に着く。今日は一日フリーなのでシャンパンもグラスにいれ持って行った。蘭はビュッフェの食事がいたく気に入ったようだった。確かに、ウィンナーとベーコンは絶品だしチーズも青かびものからゴーダからいろいろ取り揃えてある。

今日の予定は丸一日スロバキア共和国の首都、ブラチスラバ。予定では船で下る予定だったが食後まったりしてる間に出航40分前。船着場はとても近くにあるため油断していたが、ガイドブックをよく見ると出国手続きがあるため一時間前には集合しなければいけなかったようだ。まあ、船はホバークラフトでしかも旅情緒には欠くらしいので乗らなくて正解だったかもしれない・・というのは逃したブドウなんて酸っぱいに決まっているという負け惜しみにしか聞こえないか。ともかく船プランは挫折したため、陸路を列車で行くことにした。具体的な時刻がわからないためフロントで問い合わせ。女性マネージャー(去年もいた)はてきぱきとネット検索をして電車の時刻をプリントアウトしてくれた。小雨交じりの天気で、大きくK+Kのロゴが入った傘をフロントで拝借してホテルを飛び出す。Sudenbahnhof で乗り換えて75分、なのだと。早速U-bahn、S-bahnを乗り継いで当該駅に到着。広い駅舎。どこで乗車券を買ったらいいのだろう?とりあえず手近のインフォメーションセンターに行って Fahrenkarten zum Bratislava のようなことを言ったらそれは反対側で売ってるのでそっちへ行けとあしらわれる。反対側を振り向くといくつかブースがあるのだが、どれなんだろう。。まずそれらしいとこにいってみるとそこは鉄道インフォメーションのようで、シンプソン父のような係員が緑の紙に印刷された時刻表をくれた。また、乗車券は隣のブースで売っているらしい。で、無事購入。階段を上って目的ホームに向かうといかにも国際線の発着駅らしく各方面行きのプラットフォームが並んでいた。ブラチスラバ行きは8番ホーム。すでに列車は待機していた。相変わらず空は曇っている。


列車内の乗客はまばらだった。日本の通勤列車の殺人的混雑振りを考えると-いや、そもそも比較対象にすらならないが-ファーストクラスの車両のように思えた。騒音は少なく、新幹線のような快適さだ。それでもなるべくプライベートな空間に近づけるべく席を探した。後方に二人の乗客はいるが我々の視界には入っていない。私に見えるのは蘭だけだ。じきに人家はまばらとなり、あたり一面畑が広がっていた。オーストリアという国において農業などの一次産業はGDP比にして2%程度であるが農地は国土の約40%を占め、
主要農産物についてはほぼ100%自給している。カロリーベースにおいて40%程度の自給率であるわが国日本とでは比較にならない安定ぶりである。ウィーン=音楽の都の胃は自国で支えられているのだが、GDPの約七割はサービス産業である。知れば知るほどオーストリアへの愛着が深まっていく気がする。それはDer Mann (ここをクリックすると同社のサイトへ。いきなり音楽が鳴る)などで多数パンが並べられているのとイメージが重なる。あたかもこの畑の産物が洪水のように街角の店へ流れ込んでいくイメージ。畑の中に水路があるのか途中、蘭が鹿を見かけたが撮影には失敗した。放射線科医として、目には邪気眼並みの透視力がある気がしていたが、蘭は時にそれを凌駕する鋭さを発揮する。

蘭ととりとめもない話をしていると、電子音のメロディが断続的に種類を変えて聞こえてくる。一つ一つは短いのだが延々と続いている。どうやら携帯の着信メロディを選んでいるようだった。クラシカルなベルの音、そのバリエーション、はたまたJazzyなメロディなど多彩だ。私がそのレパートリーがcoooolなものを揃えているね、と言うと蘭はにっこりと笑った。蘭が口唇挙上筋を用いてにっこりとすると上顎洞の辺りのほほがぷっくりとする(元ピンクレディの未唯さんっぽい)。私はその様にたまらない欲情と愛情を感じるのである。

さて、実はここで当初予定していた路線とは別の路線に乗っていることに気がついた。当初はBratislava行きに乗っていたつもりだったが上記の写真をよく見るとわかるが、今乗っている列車はBratislava petrzalka行き。総武線快速が久里浜行きであっても東京駅に停車するように、てっきりBratislavaへも行けるものと思っていたが、緑の時刻表をよく読むと、目的地Bratislava petrzalka行きとBratislava 行きとでは途中駅が明らかに違う。路線自体が別だった。ガイドブックはBratislava から主たる観光スポットへの行き方を紹介していたので果たしてBratislava petrzalkaからそこへ行けるのか。Bratislava petrzalkaはガイドブックの地図にも載っていない。また、ガイドブックによると現地では必ずしも英語は通じない。年配の人ならドイツ語あるいはロシア語が通じるとのことであった。私は少しならドイツ語が話せるし、実は日独・独日辞書も持参してはいるが、首尾よく現地で情報を得られるだろうか。そのことを蘭に話すと、蘭も事態を察知したようだったがそんなに動揺しているようには見えなかった。

そうこうしているうちに、列車は終着駅へ。降りてみると空は灰色で小雨が降っていた。社会主義時代の影響か、駅は殺風景で、商業広告の類がまるでない。ホームから出口へ向かうと入国審査が待っている。"Policia"と記された黒い制服を着た男がパスポートをチェックしている。さっと見るだけで返してくれたのでそのまま出ようとするともう少し奥にあるブースの係員に呼び止められた。もう一度チェックされた。ダブルチェックという行為だが、この手の審査では珍しいのではなかろうか。何か治安上の意味があるのだろうか?こちらでもちょっとパスポートを見せただけだったのだが。

雨天のせいかもしれないが、駅の中は薄暗い。元々照明も少ないようだ。駅のロビーへ向かって進んでいくと、両替屋があった。ユーロとSK(スロバキアコルナ)を交換してくれるようだが、レートの大小は判断しがたい。4000SK=15ユーロ(数字はよく覚えていない)と紙に書いて窓口に張ってある。どのぐらい換えようか考えていると、両替屋のおじさん曰く食事するんだろ?なら4000SKぐらいにしときなよ、といった助言?をくれたのでそれに従い12Eほどを
差し出した。次に立ち寄ったのがツーリストインフォのカウンター。目的地たる旧市街へ行く方法を聞かなければ。やはり薄暗いカウンターにはおばあちゃんと孫?と思しき少女がいた。3畳ほどの狭いスペースで所狭しとパンフレットが並び、壁一面に地図が見える。おそらく英語は通じない。あらかじめどう尋ねればよいかは列車内で考えていた。"Entshuldigen Sie Bitte. Wo koennen wir zu alte Stadt gehen?"
するとおばあちゃん、なにやらしゃべりだしたが聞き取りづらい。が、どうやら「91番バス停」に乗ればよいらしい。ついでに、10分券で行けることも教えてくれた。区間ではなく時間で設定されているところがよそ者にはわかりづらい。なにやら手振りで上に上がったりしたに下がったりする様子を表現しているが、バスのルートは up down が激しいということなのだろうか。とにかくお礼を言って、雨降る中駅舎を出た。駅の目の前は一本道になっていて、駅側と反対側に番号札が貼られているバス停らしいものが幾つかある。各々チェックしてみたが91番はない。やむなく先ほどのおばあちゃんのところへ引き返してたずねるとまたもや上下のしぐさ。うーむ??しかし、行き先を指し示したところには地下道への階段が見える。さっきは気がつかなかったがおそらくここを通って行けという事なのだろう。再びお礼を言って殺風景な地下道を通り抜けるとそこにもバス停があった。そして、目的とする91番バス停をついに発見。上りと下りのどちらに乗るか?バス停留所名も方角もよく判らないが、10分でいけるのだから終点まで四つの停留所に行く方がおそらく正しい。少し待っていると二連結のバスが勢いよく入って来た。行き先は "Novy most" とある。バスに乗り、時間を打刻する。本当に旧市街に付くのか多少不安であったが、バスはドナウを越えブラチスラバ側のバスターミナルへ到着した。見上げると小高い丘の上にブラチスラバ城が霧がかってその威容を誇っている。

方角は正しかった。とりあえずの行き先はそのブラスチラバ城であったのだが、すぐ近くに見えていて道は遠かった。バスターミナルのすぐ北側は自動車道路のみで、徒歩では超えがたい。やむなく西回りに歩いていくことにする。その途中、蘭と私とで記念撮影をした。黒い傘を持ち黒いコートの蘭はその肌の白さとコントラストをなし、この異国の空の下でもゆるぎない光を放っていた。そののち歩いていくと歴史がかった教会に通りがかった。これは聖マルティン教会で、黒ずんだ壁が歴史の重みを感じさせる。なんでも古くはハンガリー国王が結婚式を挙げたところなのだとか。途中路面電車にはねられそうになりながらどうにか城へたどり着いた。鬱々とした空からは小雨が降り続いている。ここまで来ると通行人はまばらだ。城の正面に回ると、その広場には二箇所のお土産物ショップがあった。帰りがけにでも寄っていこう。ブラチスラバ城の起源は鉄器時代にさかのぼるが、現在のような形になり始めるのは15世紀以降のことである。建物は中庭の四方を囲み、各々の角から塔が突き出ている。その形から、「テーブルをヒひっくり返したような」と形容される。正面入り口から入ると中庭では工事が行われていた。
ガイドブックを見ると、入場料が80SK程度とあるがぱっと見た目にそのような窓口は見当たらない。中を少し歩くと奥まったところにデスクがあり、なにやら料金表のようなものを掲げている。どうやらここらしい。よく見てみると、一人100SKでガイドブック記載の時点より値上がりしたようだ。ここで券を買い、さらに奥にあるクロークで老婆にコートやバッグを預け中を見て回った。硬貨、古美術品再生のプロセス、中世から近代の武器、アジア・中国の民族衣装、宮廷の家具などが展示は盛りだくさんであった。特に武器展示は見たことも無いようなお種類の銃、野砲、剣がこれでもかと陳列されており圧巻だった。
一通り見て回った後、四隅にある塔の一つへ上れるところにたどり着いた。ドアを開けると、クロム色に輝く王冠が展示してあってその向こうは階段になっている。階段はらせん状で、ひたすら上へ登っていった。その様子をカメラで収めていると蘭が興味を示した。その頃には少し息もあがっている。ようやく塔の頂上に達すると四方には雨にぬれたブラチスラバの美しい光景が広がっており、しばし言葉を失う。空気はひんやりとしている。他愛もないことではあるが、異国の欧州において何かを達成したような気になり、それは霊的とも言っていいぐらいの感銘であった。その後はゆっくりと塔を降り、来た道とは別のルートで市街地へ戻った。
途中日本人観光客がうろうろしているのを見かけた。彼らはまだ若く学生のようであった。この城の博物館を見るでもなく、裏庭の向こうにある抜け道を見かけるでもなく、まさにモラトリアムの真っ只中にいることを象徴するが如く放浪する彼ら。少し軽蔑のまなざしを送りそれを口にすると蘭はやんわりとたしなめるのであった。数千年前のピラミッド建築の落書きにあるように、常に「いまどきの若い者は・・」は繰り返されている。そのことを思い出させてくれた蘭の一言。いつの間にやら自らがそのような年齢に達したこをと否が応もなく自覚させられたのだった。

途中またもや路面電車にはねられそうになりながら市街地までおり、ランチの場所を探した。目指していたのは、ガイドブックにも載っていた「ブリンゾヴェー・ハルシュキ」なるスロバキア料理。小麦とジャガイモによるニョッキ、にベーコンと羊のチーズで味付けしたもの。
ブラチスラバ城から帰る途中に、いかにも安食堂といった風体の店のメニュー(通りに張り出されていた)にも載っていたのだがやばそうなのでスルー。結局大通りまで戻って店を物色。
すると、"buisiness lunch" という記載のあるお店が、ミハエル門近傍のとあるビル(*)の1Fにあるメニューに書かれていた。蘭と話し合って、そこに行くことにした。その看板の奥にある店に入り階段を上り席を探す。しかし、、そのテーブルの上にあるメニューを見るとどうも雰囲気が違う。改めて店の名前を見ると、ビル1Fのメニューにあったそれとも違う。慌てて店を出て確認すると目的地は4Fであった。エレベーターのドアが開くといきなり店内で、たどり着いた先は如何にも高級店、といった風情の調度品で固められたレストラン(ALIZÉ RESTAURANT)(魚拓)であった。きっちりとした給仕服を着た長身の美男美女が迎え入れてくれる。
客は我々の他はない。渡されたメニューを見ると、換金した現地通貨を使い果たしそうな
値段だったのでビールとパスタでお茶を濁した注文をした (計544SK)。

その間にガイドブックを再チェック、元々予定していたスロバキア国立劇場の位置を確認した。

(*)近代的な靴作りで有名なTomáš Baťaの元住居らしい。Tomáš Baťa は第一次大戦においてオーストリア・ハンガリー帝国に軍靴を供給し財をなした。

それまでぶらぶらと歩きながらブラチスラバ旧市街地を探索。こじんまりとしてはいるが、ブロック一つ、建物一つに歴史の重みを感じる。女性向け下着店に入って蘭の買い物に付き合ったりした。その後はさっき食事をしたばかりだったが、どうしてもハルシュキを食したく、ワインセラーを改造したと思われる店("Slovak cellar")でついに遭遇。薄暗い階段を下りていくとレンガ造りのトンネル状での店内についた。そして意気揚々と注文しついでにビールも頼む。店内の様子に魅入られたかのように蘭は写真を撮っている。


程なくして運ばれてきたそれは厚い木のプレートに乗っかっており、素朴でかみ締めるような味わいがビールとよくフィットしていた。店を出る頃には雨がぱらぱらと降っていて我々は傘をさした。が、まわりをみるとせいぜいフードをかぶるぐらい。日本人ほどは雨に濡れるのを気にしないらしい。今となっては日本国内で傘が大量に売れる理由がわかったような気がする。ちなみに、横浜税関の調査によると1億三千万本もの傘が2006年に輸入されたという。



現地のインフォメーションセンターによって帰りのバスを確認したあと国立劇場。驚くほどの安価(2.5E!)で自由席チケットを購入。今日の演題は7時からモーツァルトの"Die Zauberflotet"、その時は意味が分からなかったが帰国して調べたら「魔笛」であった。さて、開演までもう少し時間があるため街中の散策を続けることにした。地元の生活の雰囲気を味わってみたいのと、飲み物(特にワイン)やスナックの買出しもかねて英資本のスーパー、TESCO に寄って見ることにした。ネオンサインが地味でもしかしたら道に迷うかも知れないと思ったが、地図の通り行ってみるとすぐに見つかった。燦然と輝くTESCOのロゴは明るかった。建物の規模も日本の郊外型のスーパーと同じぐらいでじっくり回るには少し広い。まずは1Fをぶらぶらしてみた。文具やちょっとした電子機器、本が置かれている。本は殆どがスロバキア語で理解不能であったが、その一角に「カーマスートラ」の本が置いてあった。しかもそこそこの数と種類が揃えられていた。厚いのから薄いの、写真が多いもの、少ないもの…既に先客カップルがいて、彼らもその本を物色していた。スロバキアではブームを引き起こしているんだろうか?蘭と一緒に少し興奮気味に本を漁った。ちょっと描写が露骨な奴を見せると、顔を赤らめ恥ずかしそうにしていた。蘭のそんな様子はとても可愛い。そこでコンパクトなカーマスートラ本を購入、写真と紙質は割りにいい。ついで、古びた感じのエスカレーターを上ると衣料品などが主体のフロアだった。二日目にして革靴が合わなくなり、靴擦れを起こしかかっていたので新しく買うことにした。探すといろいろな靴があって、スニーカー風のシックな黒靴を購入、1190SK (約4800円)だった。手持ちを考慮しVISAカードを使用。ほかのところを物色していた蘭が戻ってきて、急場しのぎで買ったにしてはいい靴ね、とほめてくれた。
次に地下階の食品売り場へ。客の動線はうまくコントロールされていて、地下階に降りるとほぼ一方通行で買い物→レジ→地上階へと誘導されるようなつくりになっていた。ワインはどれもこれも驚くほど安い。ミネラルウォーターもあればよいだろうと思い、店員に質問してみた。炭酸ありのとないのとが混在しており、スロバキア語がわからないので区別しがたかったからだ。若い店員であったが、こちらの拙いドイツ語はどうにか通じて炭酸のありなしがわかった。ラベルの文字から類推できたのだ。ラベルに neperliva とあれば炭酸なし、 Perliva とあれば炭酸入りだ。



つまみにはプレッツエルを購入した。そうしているうちに二人ともトイレへ行きたくなりうろうろと館内を探索してみたが、見当たらず先ほど話しかけた店員に聞いてみる。「トイレデコデスカ」。すると、トイレットペーパーのある陳列棚に誘導された。苦笑しつつも「チガウチガウトイレ」というが理解されなかったようでしょうがないから別の店員にきいてみた。そしたらまたトイレットペーパーのあるあたりへ誘導された。もうこうなったら自力で探すしかない。方々回るうちに発見、トイレは階段の踊り場にあり、2-3F間が男子トイレ、1-2F間が女子トイレであった。ここで蘭と別れておのおののトイレへ。…中に入ると老婆が一人陣取っていて、どうやら利用料が必要なようだった。そういえばガイドブックにそのようなことが書いてあった気がする。財布の中を探ってみるとコインはなくSK札のみであった。しょうがないからお釣りをよこせと念じつつ(私のドイツ語力ではムリ)、札を渡そうとしたら、「行け」というジェスチャーをされた。親切な人だと感動しつつ放尿、戻ってみると蘭がそこにいた。どうやら蘭もチップを要求されたが小銭がなく利用させてもらえなかったようだ。そこでひとっ走り行ってボールペンを購入し小銭を作った。
ちょうど開幕時間近くになり、スーパーの袋を抱えて劇場へ急ぐ。入り口を入ると身なりのよさそうな紳士淑女が集っており、ラフな格好でスーパーの手提げ袋を抱えた我々はどうにも居心地が悪い。が、旅の恥はかき捨てだとばかりにクロークに預け(さぞ面食らったことであろう)、チケットに書かれた席へ向かった。

席は舞台に向かって左最上階奥。スツールのような椅子があって、その前には腕を置けるようになっている。まるで絵に描いたような欧州の劇場、その非日常感にドキドキしていた。カメラを向けると、蘭はクールな笑みを浮かべた。そしていよいよオペラの開幕だ。耳が痛くなるほどの静寂が突然訪れた。衣擦れ音すら許されないかのような沈黙。音楽が奏でられ、王子のような格好をした俳優と鳥かごを抱えた男がいる。夢のようなひと時がまさに始まったのだ。惜しむらくはそのストーリーと、歌詞がわからないこと。残念ながら何度も居眠りしてしまった。私に芸術派ほど遠いようだ。ようやく一幕が終わり魔法の時間から現実へ。前の席にいた黒人が話しかけてきたので他愛もない話をして、「これで全部終わりですかねえ」と尋ねてみた。そうすると、もう一幕あるようだったがウィーンへ戻る電車の時間がぎりぎりになりそうだったので一幕で帰ることにした。そこで蘭いわく「すぐ誰にでも懐く~」。自覚はないが(むしろ非社交的だと自分では思っているが)蘭にはそう写るらしい。



最初にブラチスラバについたバスターミナルへ戻り、Bratislava petrzalka駅への切符を購入。すでにあたりはたっぷりと中欧の夜だ。


駅にたどり着くとがらんとしていて悪夢の中のような光景だった。さて、窓口に行くと女性の係員がいた。少し筋の悪そうな感じであった。話しかけてみたらドイツ語も英語も通じず、しょうがないからひたすら wien だの wien mitte
だの繰り返していたらどうにか通じたようだ。対面窓下の回転小物入れにカードを入れると切符を返してきた。待合室でコーヒーを飲みながら電車を待った。昼間に比べるとかなりおざなりな(雰囲気の)出国審査を経て列車へ。

(学会初日。プラター公園、意外なコンサート)2007.3.9

学会第一日目。ホテルからは乗換無しで学会会場へ行ける。蘭もお気に入りのホテルの朝食(特にチーズとハム、ソーセージ類が別格)を取ったあと、会場へ向かった。ホテルから駅までは数百メートル、すでにウィーンの朝は始動している。ゴミ回収車、駅前のサンプル配りのお姉さん、無料で配布される新聞 (Öestereich 紙など)。それらをくぐり抜けながら地下鉄に乗る。改札に人はなく、ただ日付を打刻する簡単な装置が取り付けられているだけである。切符を買う人はあまり見かけず、そのまま出入りしているようであった。何か定期券のようなものを買っているのかもしれないが。Schwedenplatz 駅からU1(赤色の路線)に乗って5駅の Kaisermühlen-Vienna int. centre. で会場だ。降りる駅ではおそらくは同業と思える人々が画一的にオーストリアセンターを目指して歩いていた。様々な言語、体臭、髪の色、服装等々。ここは既に非日常的な「国際」の現場だ。放射線医学の徒が全世界一同に会する熱い現場なのだ。その群衆へ参加しているという喜ばしくも緊張に満ちた、私にしては殊勝な心構えでいた。会場に着くと、入り口のあたりで多くの人々が煙草を吸っておりもうもうとしている。日本や米国ほどは喫煙への規制は強くないようだ。すくなくともここウィーンおいては。学会速報紙 "ECR TODAY 2007" が配布されている入り口をさらに入ると、左手に学会バッグ(プログラムなどの資料が多数)をくれるブースがある。今年のバッグは去年のよりは使い勝手がよい。去年のECRでは新しい試みとして学会ラジオ局開設とその視聴装置を配っていたけど、今年は取りやめたようだ。

各セッションごとに評価シートが配られ、それに予めもらっていたバーコード付きのIDシールを貼って終了時に提出する。これが参加した記録となり、後にオンラインで CME 証明書として利用できる。提出しないと記録に残らないので注意。本日は下の2セッションに参加。
RC101 Ambominal and Gastrointestinal Imaging malignant liver lesions
転移・非硬変肝における原発性肝悪性腫瘍・硬変肝における原発性肝悪性腫瘍の三つに分かれている Refresher course. どこかで聞いたような内容であまり印象に残らず。

SS205 Computer Applications CAD and automated image analysis
CT colonography の CAD が三題、肺結節の評価が二題、 卵巣癌における histosacn 、全身MRIでの脊椎転移検索の CAD, dual energy CT など。 CTC についてはエキスパートではCAD不要→専門性の主張? (通常 CF との勝負はやはりつらそうだが)、腸管前処置はより楽な tagging へという流れになるのかも。Histoscan の原理はいまひとつよくわからないが 3D US のデータを用いて超音波の背景散乱を解析、組織型の推定(癌か否か)を特殊なアルゴリズムで解析するもののようだ(histoscanning.comの資料より)。卵巣のみならず、乳癌や前立腺癌での臨床応用が可能らしい。生検に代わりうるものにはならないだろうが、ある程度正確に診断できるのならば診断・ステージングのプロセスに割り込む余地はありそう。
シーメンスのマシンによるDual energy CT では X線スペクトラムの解析により、同じ高濃度でも石灰化と造影剤による染まりの区別が可能になるとのこと。"Virtual pre-contrast" の発想が面白いが臨床応用の範囲は狭そうだ。Dual energy といえばかつて肺結節の解析に石灰化の検出による良悪性の鑑別で一度挫折している。

そうこうしているうちに、午前中のプログラムが終了。RSNAほどスケジュールがタイトではないので、ランチタイムはじっくりとれる。午後に聞く予定のセッションは4時からだ。その時間に、蘭と出かける予定で居た。待ち合わせは会場近くの駅だ。…予定時間を過ぎること30分、蘭がくる気配もない。退屈しのぎがてら外を撮影。すると、携帯が鳴って取ってみると 「どこにいるの」。明らかに声が怒っている。「IDチェックのところにいるんだけど」むむむ、駅から会場への一本道で待機していたのにいつの間にか通り過ぎたんだろうか?少し話を聞いてみるとどうやら学会会場とは別のところにたどり着いたようだ。

その後駅で落ち合い、プラター公園へ向かった。U1 で praterstern 下車。徒歩で10分、うららかな日差しの中並木林を行くとおそらく観覧車では世界でもっとも有名であろう、映画で見たあの構造物がそこにあった。観覧車を背景に、蘭と写真を撮る。そう、これが有名なウィーン大観覧車なのだ(サイト)。チケット(8E)
を購入し、黒人受付員が半券を切って中へ。展示物の脇を通り過ぎると、白人の受付員が何かを聞いてきた。よくわからなかったので聞き直すと、どうやら記念撮影がいるかどうかということだった。いらない、とこたえるととっとと消えろといわんばかりの勢いで乗車口は向こうだ、といわれた。観覧車はゆっくり回っている。赤く箱型のゴンドラに乗り込む。人が乗り降りするたびに一時停止させており、回転速度は不均一だ。異国の空の下、蘭と私のためだけに少しの間用意された専用の空間。一個後ろの個室には大きなテーブルと椅子が並べられている。内装は各々異なるんだろうか。内側は板張りになっているが、多数の落書きがなされている。我々と同じように、かつて一時的にゴンドラの主だった人々が書いたものだ。周りに誰もいないのを確認し少しいちゃいちゃした。「やらしい声出して~」とからかうと、ぽかぽか叩かれて「もう何もしゃべらないよ」とむくれた。そんなところも可愛いのだが。上ってきたところで窓を開けて外を見ると、デザインの統一された建物の屋根屋根が整然と並んでいた。

蘭が、「第三の男」のあのメロディを口ずさむ。その横顔ははっとするほど美しく感じた。この時間が永久に続けばいいのに。

観覧車から降りて昼食を取る場所を探した。園内は他にジェットコースターなどもあるが全体的にうらびれた感じで、カフェテリアみたいなところは煙草の煙で充満していた。しょうがないから外へ出て店を探す。すぐそばの Praterstrasse にある "Gasthaus" という店があり、メニューを見ると手ごろだったためそこで食べることにした。人のよさそうなおじさんが切り盛りしている。周りに観光客らしいのはいない。白身魚のフライ、ポテトの添え物、スープなどで 22.7 EU。なんだか割高な感じがする。請求書を前にうなっているとまたおじさんがやってきて "without tip" というので 24E 払って外へ出る。そこでいったん別れて私は再び学会場へ戻った。
*注釈
プラター公園の観覧車は最も古いものの一つで(参照)、建設されたのは1897年である。地下水道とともに、オーストリア帝国の栄華を象徴する建造物であり、映画「第三の男」においても舞台となった。闇商人として小悪に手を染めるハリー・ライムは「古きよきオーストリアを象徴する人物であり、第二次大戦敗戦後の英米仏ソ四分割統治下にあってはむしろレジスタンス的な魅力を放っている」と論評する人もいる(参照)。戦後復興の中、30あるうちの15のゴンドラのみ交換すればよいぐらい保存状態はよかった。ちなみに、ウィーンは9Mも掘ると古代ローマの時代の層に到達しうる。後述するFreybung で駐車場建設のため掘り返したら12世紀の歩道が発掘されていたりもする。欧州都市の地下は連綿と続く歴史の中にあるのである。




午後からのセッションは
CC416 The staging of cancer staging nodal and distant metastasis
であった。骨、腹部、リンパ節転移についての概説。復習にはなった。
その後、Dr. Stephan Swensen (ロチェスター)による Inaugural lecture と、恒例の opening concert. 自らのルーツがドイツ系移民のようで、それに絡めたスピーチが行われた。主題としては欧州と米国との相互関係のようだった。今年の学会頭の Christian J. Herold 氏は教育に力を入れることを明言した。名誉会員の表彰では京都の富樫かおり先生が受賞していた。
コンサートは今年もクラシックのみかと思いきゃ Joe Zawinul、Sabine Kabongo によるソウルフルなジャズセッションが引き続いて行われた。ツインピアノから始まり、魂のこもったアフリカ出身 Sabine のボーカル、奇抜な楽器を用いたワールドジャズとでも表現すべき楽しげなセッションであった。*Joe Zawinful氏は2007.9.11逝去された。

その余韻を残しながら、ホテルへ戻る。少し休んでから、夜のウィーンへ散歩に出かけた。当然最低限の警戒は必要だが、治安はいいと思う。夜は特定のスポット以外は閑散としている。オカマバーらしい所もあって中に入ってみたがまだ開店前だった。
突然、立体的に交差する上の方の道路からビンの破片が落ちてきた。きらきらと街頭に照らされており、不穏当な例えだが 「水晶の夜」という言葉が思い浮かんだ。理不尽ドラマのような展開だが。その後 Freybung の方で Wienerwald というレストランに入り軽く食事をした。ビール、ミネラルウォーター、フライドチキンなどで 15E。夜のウィーン市街地は時間を閲した古い建物群が石畳の道路をどこまで行っても続いておりなんともいえない風情がある。ホテルへ戻り就寝。蘭は疲れたのか先に寝てしまった。私の腕に抱かれて眠る蘭。肌を通して感じる体温が暖かだった。こっそり寝顔を撮影。

(ウィーンに咲いた桜、フランスから来た男)2007.3.10
MC 518 Woman's imaging Changing paradigms in the evaluation and management of breast and ovarian cancer
US で indeterminate とされた病変のMRIによる評価、卵巣癌におけるTNM 、乳癌の局所広がり診断と三つのセッションからなる。卵巣癌については、開腹での病期診断+腫瘍量減量手術のコンセプトから切除の是非、そして化学療法による腫瘍量減少という流れにあることは初めて知った。

SS 601 Abdominal viscera Whole-body imaging
全身検索、というくくりのためか扱うテーマは広く不均一で興味深かった。全身検索のMRIについては3TのものやPET/CTと
比較しているといった演題で、diffsuionのものはなかった(B251-3)。どれも労力の割には見返りが少ない印象であった。
DWIBSの研究は今ひとつ停滞気味のようだ。 Sens/Spec ともに中途半端なのかもしれない。
ついで、腹部リンパ節についての演題(B254-5)。B254 は#16リンパ節転移について短径 8mm 以上、不整な形態、
集簇、血管浸潤という基準を打ち出したもの。しかし特異度 87.9% をサイズクライテリアも含めるようなもので出せるのだろうか疑問ではある。B255は腹部リンパ節の結核 vs リンパ腫を比べたもので、前者は multilocular・不均一な造影効果・輪状造影効果・下部傍大動脈リンパ節 involvement がより少ない、といったことが鑑別点になるという。しかしながら腹部リンパ節結核自体頻度はきわめてすくないという印象で、果たして鑑別が問題になるような症例はあるのだろうか。
AIが二例あって、B260 は剖検所見をgold standard として、死後 CT/MRI +エコーガイド下生検の有効性を二重盲検で検討したもの。非心疾患死では70%の合致率であったというもの。法医学と臨床とのまさにニッチな分野だが普及する目はなさそうだ。興味深い内容ではあったが。
ここで午前中のセッションは終了、蘭の待つホテルへ飛んで帰る。Schwedenplatz 駅から歩いていると、異様な光景に気がついた。駅とホテルとの間には左手にウィーン最古の教会である聖ルプレヒト教会がある。その庭にどうみてもソメイヨシノにしか見えない桜の花が咲いていた。雪の残っていた去年と比べ今年は温かいとは言え、桜など本当に咲くものだろうか??

近くによって写してみても、日本の桜にしか見えない。ホテルへ戻り、蘭を誘い出して花見。蘭が桜を背景に私を撮影しようとしたとき、何か困惑の表情を浮かべていた。後で聞いてみると、どこかのおじさんが一緒に写ろうとしていたらしい。その後、この近くのインテリアショップを冷やかしがてらランチに。この教会の近くにギリシャ料理の店はあるのだが、内容がイメージできないのとやや高めであることから旧市街へ繰り出した。最初は屋根のついたカフェに腰を落ち着けようとしたのだが、どうみてもティータイムのケーキぐらいしかなさそうなので案内はしてもらったがすぐに抜け出した。すると、Nordsee というシーフードレストランを発見。キャフェテリア方式で、食事を取り分けてもらった後レジで精算、その後に食事というスタイルだ。私はパエリアとホタテのフライ、ビール、蘭はスープとサラダを注文し高いスツールに座り食事をした。値段はお手ごろでそこそこ美味しいので軽く食事を取るには向いている。天気は怪しかったが、街をぶらぶらしながら途中で見つけた書店へ。蘭は興味がなさそうだったが、私はオーストリア語辞典と中世甲胄・武器の本を購入。
午後に参加予定のセッションの時間が近づいたため学会場に戻った。

NH8 Latest advance in breast imaging
ECR today にも紹介されていたセッション。印象深かったのが フランスのRalph Sinkus 氏による MR elastography (A165)。鮮烈な動画で「硬さ」の診断がプレゼンテーションされていた。同じ癌でもスキルスと粘液癌では異なった所見が出るかと思われた。それをセッションのあとに質問してみたところ、同氏もそのようなデータを得られていると言うことだった。その点での満足もさることながら、自分の英語力に少し自信が増した気がした。このようにじかにあって話が出来るというのは何にも変えがたい経験であろう。
このセッションではこのほか MRS と optical tomography の話題もあった。

さて、日も暮れてホテルに戻り、蘭と談話。今日の夕べは某製薬会社主催のご当地セミナーがある。それについて話をしているうちに、蘭の表情が曇った。「え、製薬会社の人と話をするの?」「あ、うん。世間話みたいなもんだよ」「そんなのだとは思わなかった。私行かない」
突然の参加拒否に戸惑いつつ雰囲気は少し険悪になった。何でそのぐらいで怒るんだろうと真意を測りかねていたが、蘭にして見れば見知らぬ分野の見知らぬMRに多少なりとも突っ込んだ話になりそうなのが嫌だったのだろう。結局承諾して夕食は近くのスタンドでピザなどを購入して終わった。

(欧州における米国の存在、カフェのルーツ) 2007.3.11
うつらうつらと目覚めつつ、今日も天気はよい学会三日目。ホテルの朝食ビュッフェがいつも同じ様なメニューなので、今日は外で食べることにした。ホテル周辺をうろうろしながら、店を物色する。ここウィーンでは夜遅くや朝早くにやっている店は少なく、せいぜいがファーストフード店である。ドアは開いてはいるが営業しているんだかいないんだかわからないような店もある。エンジェル大会??のようなわけのわからん行事のポスターもあった。少しさまよって見つけたのは Der Mann のお店。大きめのパンとコーヒーを注文して狭い店内で食したあと出撃。パンが固くて口の中を少し切ったのは秘密だ。朝一番のセッションにはまだ時間があるため、学会会場方面へ向かいつつ散歩することにした。つい昨日食事をした Gasthaus 近傍までぶらぶら歩く。ここまで来ると人はまばらだ。美麗な建物を背景に写真を撮りまくる。

その中で気になった施設がある。街頭でピックアップして街頭で返却するタイプの貸し自転車スタンド(無人)である。ちょっと登録すると無料で使えるらしい。そういえば、同じ様なスタンドが Schwedenplatz 駅周囲にもあったような気がする。これに乗って蘭と市内を回ったら楽しそうではあるが、公共交通が発達しているウィーンに置いては余り魅力を感じない。
さらにその向こうを行くと、バイク屋さん(開店遙かに前)があった。元々二輪車は好きで、学生の頃はバイクに乗っていたこともあって、興味をそそった。そのお店にはホンダの商品が主として置いてあるようだった。値段はそこそこだが、CBR系のバイクが多かったようだ。ちなみにお値段はCBR600Sが7990Eをディスカウント6399E。
ファイヤー柄のつなぎもディスプレイされていた。昨晩の Wienner wald とかでもメニューにあった geb. などの特有の略語。同じ様なファーストフード店があって、メニューと共にドイツ語の説明が書かれている。蘭は "geb" というのはセットメニューを表すものではないかという。
確かにその店のメニュー写真を見るとそのようにも思える。そういったことを話しながら歩く。もっと先には T-mobile の携帯ショップ、さらに行くと
ストリップショーのポスターが貼られた無人ショップがあった。女性が前屈して尻を大きく男に尽きだしそのまま結合しているという扇情的なイラスト。
のちのちも蘭にその話をしたら少し動揺していたので、蘭もそれなりに感じるところがあったのだろう。ついたのは、昨日ランチをしたGasthausの近く。ウィルヘルム像のところで写真を撮る。駅についてそこでしばしお別れ、蘭にウィーンのガイドブックを渡して私はそのまま会場へ向かった。

さて、本日午前中のセッション一発目は肺癌病期診断。ちょっと何かあったら陰影として写るがその区別が難しい肺病変。PETも含めて解説してくれたのがスペイン人のコンビであった。部屋のレイアウトが特殊で、細長いところにある程度以上の人数を詰め込むもんだからすぐそばに講師がいるのにモニターで拝聴するハメに。途中聴衆の答えを募るような場面も多数あったがそれがどの程度反映されているんだろう。案の定見えないところ(おそらく講師目の前の一群と思われる)で盛り上がってる。この講座でのメッセージとしては
・胸壁浸潤は切除の対象となりうる。が、各モダリティでの診断精度には限りがあるので所見の記述にとどめよ。
・N因子については明らかにPETが優位であるので、PETでN1-2→縦隔鏡(合併症~4%)で確認するのがよい。
・手術に成りそうな患者はすべてPET/CTを行うべきである。T4,N3,M1といった切除不能患者を除外する。
・MRIを副腎病変の鑑別に(これは少し古い;今はCTで十分と思われる)
・2/3の再発は胸郭外;最初の一年は3ヵ月後ごとにCT、以降は半年に一度。
・常に以前の画像と比較するべし。また、所見があった場合には再発以外の可能性も常に考えに入れておく
・セカンドプライマリーは年に1-2%、注意を払え


その後乳腺のMRI,そして大混雑のランチョンセミナーへ。ランチの箱の中には大雑把なサンドイッチとミネラルウォーター、ケーキ、バナナがざっくりと入っている。このミネラルウォーターはウィーンで売っているのをよく見かけるブランドのRoemerquelle。古くはローマ時代にさかのぼる「由緒正しい」飲料で、オーストリア・エーデンシュタールが水源らしい(当該サイト)。オーストリア市場1、2位の売れ行きであったが、2003にはコカ・コーラHBCの傘下に。今回のセミナーの主題はヨード造影剤と腎障害についてで、主役はビジパークという等浸透圧造影剤。元々はアマーシャム社というイギリスの会社で出していたものであるが、2004年にGEが買収。老舗と言えど国際的に流動する資本の風に晒されている。米国サブプライムローンの焦げ付き問題が欧州へ飛び火し株価の暴落を引き起こしたように、欧米間でのマネー往来は複雑怪奇かつ深い。外からの資本を「ハゲタカ」とみなして、司法も行政も全力で老舗企業を守ろうとする日本がこの先通用するのか。さて、ランチョンセミナーはGE主催であり、当然のごとくビジパークの大宣伝。イントロでアメリカ人医師が軽いジョークを交えつつ講師を紹介。講師は二人のイタリア人で、一応の「権威」のようだ。口角飛ばしながらいかにビジパークが優れているか暗に陽にしゃべり続けている。耳にやかましく不快に響くイタリア人の英語。うんざりしながらの一時間が過ぎた。

多少グロッキーになりつつ、蘭の待つホテルへ戻る。今日はシュテファンプラッツ界隈へレッツゴー。予めカフェの探索をしていた蘭が言うには、座っても誰も来てくれなかったりと、辛い思いをしたようだ。

ウィーンと言えば、カフェ。カフェと言えばウィーン。「コーヒーはエチオピアからアラビア半島を経由し、ウィーンにも攻め込んだオスマントルコ帝国に広まった」(日経新聞2007.8.4付け、NIKKEIプラス1S15)。ヨーロッパのカフェ文化はウィーンから始まったといっても過言ではなかろう。世界最古の新聞は1703年創刊の"Wienner Zeitung"紙であるが、当時新聞はコーヒー一杯の二倍以上の価格であった。その、新聞が読み放題とあってウィーンのカフェは魅力的であって、トロツキーやクリムトも通いつめた。かつてバブルの頃に「ぴあ」が出していた東京マップ本に載っていたコラムの中で、フランスの女性記者が東京を評して「ヨーロッパは歴史の重みに押しつぶされそうになるが東京は日々変化する都市であり、そこが魅力である」と言っていた。無いものねだりは人情ではあるが、日本人の私としては数百年前から連綿と続く都市に限りない憧憬を感じるのである。

まあとにかくカフェで一服しようということになり、いろいろシュテファンプラッツ近傍へU-bahnを経て到着。日差しは明るく汗ばむような陽気だ。多くの人々が通りを歩いている。列を組み大声で何かを歌っている女子学生。金銀いろいろアリの「彫像パフォーマンス」(Statue Street performer)などなど。黒くくすんだシュテファン寺院や石畳と好対照を成す「生」の証。今までも、これからもこの場所は未来永劫世界中から人々をひきつけ賑わうのではないか。そんな風に思わせる名状しがたい魅力がここにはある。せっかくだから写真を撮ろう。そう思ってシャッターを押してくれそうな人を蘭と物色。なんだか話しかけにくそうな人々ばかりだったが、まさにその人はそこにいた。ベビーカーに子供を乗せた若い夫婦連れ。すかさず歩み寄って、"Wollen Sie uns photographieren?"とおそらく変なドイツ語で声をかける。訝しがる旦那。すかさずその嫁が我々の意図するところを理解してくれた。そして記念撮影。

さて、行く先のカフェ。いくつかは既に蘭がめぼしをつけている。少し裏路地を入って行って様なところに様々なカフェがある。店を探しているときに見つけたのが銃やナイフをディスプレイしてある店。男としては沸き立つものを感じるが、これらは本物なんだろうか。サバイバルナイフのようなもの、拳銃や猟銃、ライフル銃のようなもの。もしかしたら玩具店なのかもしれないが質感はそこそこ。そうこうしているうちに、目当ての店が見つかるがなんとなく入りづらい。さらに探索を続けて見つけたのがBräunerhof Konzert-Café である。少し裏路地に入ったところにそのカフェはある。一旦ドアを開けてはいるとそこはもう歴史的な空間だ。19世紀の雰囲気そのままの内装で、右手には大量の新聞がファイルケースのようなものに挟んでおいてある。ほとんどはドイツ語のようだ。メガネをかけた、レンブラントの肖像画のモデルのようなウェイターに通され着席。なんとなく緊張する。妖しげなドイツ語で注文した後改めて店の中を見回してみる。おそらくは、1-2世紀前から、そしてこれからもこのような佇まいで来客を迎えるのであろう確固とした内装。少し蘭と話していると、3人組が室内楽の演奏を始めた。このような音楽を生で聴ける喜びはめったにない。まるで春の宵闇のような心地よさだ。そうしているうちに、水のついたコーヒーが運ばれてくる。隣のテーブルでは地元の人らしいカップルがカジュアルに楽しんでいるというのに、当方は緊張気味だ。そして、お勘定。チップが絡む支払いにはストレスがついてまわる。くだんの肖像画ウェイターがSechzehn und acht みたいなことをいうのでよし、チップ込みで17Eだな。おk…
と早合点して請求書に書き込む。Richtig と言うと、ハイジのロッテンマイヤーさんのイメージで片方の眉をピクリと挙げ、しかも目を丸くして "Danke Schoen" と言われた。少しビビリながら頭の片隅で再計算すると、チップとして彼にあげたのは200セント、このときのレートでせいぜい50円ぐらいだろう。まるでガキの使いだ。驚かれるのも無理はない。あー失敗、失敗という申し訳ない感情に責められ、蘭にその旨はなしてみる。「ま、しょうがないじゃん」というような調子で慰められる。こういうときの蘭はすごく頼もしく見える。
店の外に出るとまだ日は高い。春を50歩も100歩も先取りしたような陽気の下、蘭と別れて再び学会会場へ向かう。テーマはCT仮想大腸内視鏡だ。ターフバトルを考えなければ非常に有用な検査手段で、そんなに身構えることもないのにと思うが、一般的に内視鏡の下手な欧米消化器内科医にとっては倒すべき敵のように扱われているのだろうか。UKのハリガン先生がそのあたりの話をユーモアを交えて解説してくれた。仮に同等レベルのsens/specでも、CTの費用がはるかに高い当地では cost-effective analysis においては分が悪いようだ。

本日のECRはこれにて切り上げ。宿に戻り既に日の落ちたシュテファンプラッツ界隈へ蘭と繰り出す。目的はグラーシュ・ミュージアムだ。ここはウィーン名物と言われるシュニッツェルのほか、往年の二重帝国の香り漂うグラーシュを非常にリーズナブルな値段で楽しめる。ヴィエナ・シュニッツェルとブルスト入りグラーシュ、テーブルワインを頼み料理を待つ。そのとき、すでに懐かしい響きの言葉-日本語-を話す二人組みの男が入店した。我々の席の隣に座り、ウェイトレスさん(女二人で切り盛りしているかのような雰囲気がある店である)がオーダーを取りにくるもかなり戸惑っている。メニュー見て指差せばいいのだろうが、彼らは緊張しているのか半ば挙動不審人物のような言動だ。渡り船を出そうかと思ったが、いやみっぽいように思われたのであえてそうはしなかった。去年来た時ブルストのスタンドの脇で困ってる日本人女性旅行客に話しかけたら蛛の子散らすように逃げられたことがあったのも影響しているであろう。食事の後、店がすっかり閉まったシュテファンプラッツ近傍を散歩した。暗闇の中に照らされ、ディスプレイされる商品。なかにはじゅうたんや絵画、ニンテンドーDSまであった。そのとき、教会脇に停めてある馬車が目に入った。去年ECRに参加したときに、蘭と一緒ならこれに乗りたかったと蘭に言ったことを思い出す。まるで劇中の人物のように。そのことを蘭に指摘されて少しばつが悪い思いをした。

(多民族の市場、宴) 2007.3.12

本日も快晴、部屋に差し込む朝日が明るい。たかだか数日目のステイであるが、すでに何年もそこに住んでいるかのような錯覚に陥るほど落ち着けるホテルである。冷蔵庫の上においてあったピザ(昨晩帰りがけにスタンドで購入したもの)を噛って朝食を食べに降りる。いつものハム、ソーセージ、チーズ、スクランブルエッグ、諸々の黒パン、シリアルなどなど。いつもの給仕の女性が朝の挨拶をしてコーヒーを入れてくれる。おそらくはECRの参加者と思える宿泊客がまばらにいるが、常に空いている。もはや「日常の朝」といってよいような状態で、せせこましくブレックファーストの心配をしながらバスを待つ長蛇の列に加わるRSNAとは全く異なる。部屋に引き上げがてら、少ししか読めないけどご当地の新聞を一部二部持って行く。蘭が持参したPC(奇しくもいつも私が使っているやつと同系列のもの)で情報をチェックしつつ朝の身支度。新妻を後ろ髪惹かれ残しつつ出勤する高度成長時代のサラリーマンよろしくホテルを出る。今日の予定は半ば決まっているが、半ば未定のまま。
本日午前出席したのは
RC1301 Small nodules in cirrhotic liver: what to do
SS1402 Advances in MR imaging

ランチには Am hof 近くのアジアンレストランまで足を伸ばして焼そば、サラダ、スープで軽く食事を取った。調度品は中華風であった。


「おてもと」と書かれた割り箸、キッコーマンしょうゆの小瓶が郷愁を幾分惹起する。そしてU4に乗り、向かうはシェーンブルン宮殿である。ハプスブルグ家の離宮として代々使われ、世界遺産にも指定されている。リーニュ将軍をして、「会議は踊る、されど進まず」(Le congrès danse beaucoup, mais il ne marche pas.)と言わしめたウィーン会議はここで行われた。行く途中、目の前にいたおばさんがドイツ語で何か述べた後、肩掛けのかばんから何か取り出し周囲のチェックを始めた。どうやら切符を持っているかどうか見る係りらしい。少し慣れて期限の切れた切符でU4に乗っていたので一瞬にして血の気が引いた。見ると周りの人はちゃんと切符を買ってあってそのおばさんに見せている。そして、私と蘭の番になった。「何もわからない外国人のふり」をして期限の切れた切符を見せた。高まる心拍数、急騰するアドレナリン。なにやら「厳重注意」のような小言らしきことを言われて開放された。チェックとは名ばかりなのかもしれないが、やはりちゃんと切符を買おうと言う思いにさせられた。ここでヒステリックに警察沙汰だのにされない鷹揚さが私は好きだ。ほうっと安心するのもつかの間、ワイルドターキーの瓶をポケットに、手には缶ビールを手にした無軌道を絵に描いたような若者が乗車し、そばまで来た。若干恐ろしかったが何事もなく彼らは降りていった。席が空いたので座ってみるとポップコーンの袋とその中身がその席にはぶちまけてあってなんともいえないカオスをかもし出していた。そしてシェーンブルン駅に到着。駅舎の雰囲気から、周囲の町並みまでなにかが違って感じられた。駅を出ると左側は川になっており、右側を行くと庭園の北東部の門にたどり着く(地図。庭園に一歩足を踏み入れるとそこは目に見えない秩序と歴史、整然と整えられた異空間だった。すでにウィーンという異国の地にあって、非日常感がなかば麻痺したような状態になっていたがここは別格だった。
どこまでも遠くに続く道は白い砂利で覆われており、宮殿の北側を北西に向かって進む。

地元の人の憩いの場でもあるようで、時折親子連れと行きかう。右手を見るとなにやら工事が行われていたが、それがなんなのかはわからなかった。しばらく行き、宮殿の西側から広大なフランス式庭園へ。観光客の数も多いが、ここはそれをはるかに上回るキャパシティで、開放感に溢れている。南を見ると、小高い丘がありその上にはかつて食堂として使われたグロリエッテが荘厳な姿を見せている。宮殿は黄色調に塗装されており、初夏の色さえ見せる青い空と心地よいコントラストをなしていた。


今年は異例の暖かさで、上着を着て歩いていると汗ばむぐらいだった。宮殿を背景に蘭の写真を撮る。今日の蘭は旨が大きく開いた白いワンピースで、その肌はいつにもまして艶かしくしっとりとしていた。にっこりと微笑む蘭と、ウィーン風ロココ様式の宮殿。被写体としてこれ以上眩しい組み合わせがあるだろうか。ふとみると宮殿内を見学するツァーもあるようだが、まずは庭園を歩くことにした。南北約 1km、ゆったりと蘭の手を引いて歩いていると、ウィーン会議当時の紳士・淑女にでもなったかのような空想がとめどなく流れる。丘のふもとには「ネプチューンの泉」といわれる噴水があり、濃い茶色の水をたたえている。反対側には三叉を構えた海神ポセイドンの彫像のほか、何体かが配置されているが、その寓意するところはわからない。この噴水から左手には「動物園」があり、その手前からグロリエッテへ上っていくつづら折れの小道が続いている。その道の手前にはなにやら小さな「断り書き」の立て看板があった。ドイツ語で記載されていたが、単語が難しく辞書で調べてみた。それによると、「季節によってはぬかるんで滑ったりする恐れがあるので、小道を上る際には自己責任で」という旨のことが書かれていた。去年なら確かに小雪が残っていたかも知れないが、今年は異常な温暖化、道はさらさらに乾いている。さて、頂上を目指すところだがこれが意外に距離がある。汗ばみながら二人で歩を進めようやくたどり着いた。

空気は透明で澄んでいる。白色調のグロリエッタの側にはカフェがあり、ほぼ満席の状態だった。ローマ兵士風の兜、鎧の彫刻で飾られている。造形はともかく絢爛として力強い。


ここで少し休憩を取った。そこから下に降りる途中、スキーのストックを持って降りる人が少なからずいることに気がついた。

雪が積もっているわけでも無いのに何故・・・?聞いてみようと思ったが、蘭に反対された。後に知るのだが、どうやらそれはトレッキングステッキという軽登山用の道具らしい。先の看板にあったように道はぬかるんでいるかも知れず、また膝への負担を軽減するために、この小山を上り下りするためには必要な道具だったようだ。
余韻覚めやらぬまま地下鉄に乗るも、途中少し散策してみたくなって Ketten Bruecken Gasse
駅にて下車。駅舎を出て歩いていると、通りに屋台のような店が密集しているところを発見した。ここがナッシュマルクトで、ウィーン市民のための中央市場となっている。
Google Map
一番駅側にあったのは、雑貨であったが、奥に進につれ殆どが食品店となっていく。傾いた日が二人の長い影を道に映し出す。

ナッシュマルクトについて
写真を撮ってみるとジャコメティの彫像のようなシルエット。物売りの呼び声、客の話し声…飛び交う言語はドイツ語から殆どイタリア語にしか聞こえない英語まで様々だ。ここにはトルコ人の屋台からイタリア風の漬物、野菜、ハム、ソーセージ、チーズそのほか諸々の香辛料などなど非常に「国際的な雰囲気」がする。小腹が減ったのでドネルケバブの屋台で肉をゲット。何を言い間違えたのか串焼きではなくサンドイッチが手渡された。といってもそれは普通に想像されるような、例えば食パンに薄くスライスされた肉が挟まっているようなものを想像してはいけない。パンの部分は、いわば「肉まん」のそれに近い白くスポンジ状のもので、中には味付けの肉がたっぷりつめられている。それでも旨そうな香りに抗することはできず、歩きながらぱくつく。蘭にも一口食べさせてみた。この屋台通りにはテラスや店内で食事を取れるような店もたくさんある。中には「寿司」を看板に掲げているところもある。どこまでいっても店、店、店…。時間を気にせずゆっくり回るにはとても興味深いところではある。少し腹も満たされたところで、オープンテラスの店で一休み。蘭と話をしているところに、貧相な身なりの親子が自分たちのテーブルのところへやってきた。なにやら物乞いのようだが無視しているとほかのテーブルでも同じようなことをやっている。あとでわかるのだが、彼らは「プロ」の物乞いのようだ。幼い子連れで少し情にほだされたのは事実ではある。
一休みした後に、さらにカールスプラッツの方向へ向かう。歩いているうちについにナッシュマルクトを過ぎた。そこから河に並走する大通りを渡ると、向こう側に奇妙な建物が見えた。「金色のキャベツ」とでも表現できる不思議なオブジェを載せた建物だ。これを見たときは何かの宗教的施設かと思ったのだが、これが「分離派会館」だったのである。世紀末ウィーンのアートシーンを飾ったグスタフ・クリムト、オットー・ヴァグナー、オスカー・ココシュカ、エゴン・シーレによる Jugendstill(アールヌーボー)の拠点である。
カールスプラッツの駅舎に入ると、若人が通路で酔いつぶれていた。白い通路の壁には様々な「時計」がデジタルの時刻を表示している。「核戦争の危機まであと何時間」と言った類の、社会的なテーマを主体としたタイムリミットの集合である。記載はドイツ語だったので詳しい意味はわからないが。


ホテルへ戻り、今夜の宴のためにしばし準備。今夜の宴は Gasometer で行われるECR主催のパーティである。特にドレスコードのようなものは設定されていないようであるがさすがに普段着で参加する気は起きない。とはいえ、燕尾服を用意しているわけでもないが。Gasometer は地下鉄 Schwedenplatz からU1(赤)で Stephansplatz へ、そこで U3(オレンジ)Simmering 行きに乗り換えて七駅である。したがって、ホテルからは30分弱かかった。Gasometer とは奇妙ではあるが、その名が示す如く元々は1869年に建設されたガス貯蔵庫である。1970年代における(石炭ガス由来の)都市ガスから天然ガスへの変遷に伴い本来の用途としては使われなくなったとWikipediaの記述にはある。それ以降は様々なテナントや学生寮などを複合した一つのコミュニティを形成し現在に至る。公式サイト
地図

さて、我々は宴の開始時刻にどうやら間に合って Gasometer の駅を出た。初めて目にする円筒型の建物‐正にガスタンクそのものだ。よくわからない一番手前のガスタンクに入ってみると回廊上に構成される各階があり、取り敢えず上を目指す。同じように会場を探しているらしい人々と一緒だ。ところが上に着いたところでそこは行き止まりと気がつく。少しあせりつつも、踵を返す他人に付いて行く。パーティ会場(BA-CA hall)入り口は四棟並ぶガスタンクの駅から二番目のもの(Gasometer B)。駅を出て右手に進むと大きなファサードを持つ入り口に着く。受付でコートを預け、ウェルカムカクテルをもらって会場へ。ここは wikipedia の記述によると 2000-3000 人を収容するホールである。すでに多くの人が集っており、宿木を探した。飲み物は簡単に得られたが、食べ物はビュッフェ形式で供給開始と共に長蛇の列を成しておりすぐにあきらめた。暗い会場に飛び交う熱気のこもった外国語。しかし異邦人たる我々には理解しがたい。なかば圧倒されつつも蘭と他愛のない話を続ける。会場は入り口から見て右手にビュッフェがあり、正面にはステージ。背後には特別席と思しき一帯がある。彼らは並ばずともどうやらご馳走を得られているようであった。雰囲気も少し違う。

やがて宴の幕開けだ。最初はややマニッシュな女性 Hermine Haseselböckのメゾソプラノ、ついでウィーン会議を髣髴とさせるヨハン・シュトラウスのワルツである。欧州老紳士の嗜みなのか、ワルツにあわせて踊っていたのは年配の参加者であった。しかしその姿は優麗華美である。音楽の都ウィーン。揺るぎのない自信と伝統を見せ付けられたかのようであった。実は、この時に恩師と劇的な再会を果たしている。まったくの偶然の結果である。しかしその会話は精細を欠き、うつ状態なのかどうかわからないがひどく疎通性の悪い感じがした。会話のピンポンが続かないというより暖簾に手押しというか、虚空に向かって打ち返しているかのような感触。驚きと落胆に満ちた再開の後、それを専門とする蘭に聞いてみたがどうにも捉えようがないとのこと。そのような感傷をさておいて、宴は加速する。サングラスとTOKIOの沢田研二張りの一張羅を誂えたややすべり気味の”エンターテイナーMichael Patrik Simoner
(どうやら公式サイト)
の煽り、途中に仏教的な「祈り」のパフォーマンスも混ぜた"Hot Pants Road Club"による音楽。アルコールの海と、留まることなき大音量の音楽-いつしか下手ながら踊りへ導かれていた。途中、学会長の Christian J. Herold を発見。ご専門は胸部放射線で、去年「肺野結節の画像診断」の講演を聞いて気になっていた人物である。若干スノッブな雰囲気はあるが(イメージ的には福田康夫)、話の節々ににじみ出るユーモアがある。芸能人に会ったファンの如く、一緒に写真に写ってくれるようお願いしたら快く承諾されたので蘭に頼んで撮影してもらった。肩まで組んでいかにもフレンドリーであった。さて、ESR新聞によるとその後日の出までこの宴は続いていたようだが、我々は日をまたぐ前に退散。心地よい眠りについた。耳に残る音楽と熱狂に包まれながら、この瞬間が永久に続くことを願いながら。
以下は youtube に投稿されたパーティの様子である。まさにステージでパフォームしているのはHot Pants Road Club である。
Youtubeへ

















(最終日の寂寥感、Final Conclusion) 2007.3.13
昨晩の宴から続く夢の中、蘭がそっと漏らした「苦しい」という科白がリフレインする。その苦しさは私自身が最も鈍感である一方蘭にとっては最憂慮事項であったが、ついに成就することなく永遠にこぼれたままのミルクとなった。

最終日、いつもの朝いつもの朝食いつもの Schwedenplatz 駅。プラットホームへ続く階段はいつものようにフリーペーパーが散乱している。ウィーン国際会議場(VIC)にいつもの地下鉄が滑り込む。しかし、昨日までの熱気が嘘のように静かだ。何より参加者が明らかに少ない。会議場


の入り口で昨日まで配布していた学会速報紙も今日はない。人で満ち溢れていたホールは閑散としており寂寥感が漂う。万物には始まりがあり終わりがあり、後者にはつねに虚無感と感傷があり、若干の達観を要する。それがこのユーラシア西側で開催された、スペシャリティを同じくする世界の同志の集いにも訪れた。それだけのことではあるが、やはり感慨深い。

本日の予定は午前中一杯 RC1708 The thyroid/parathyroid, SS1801b colorectal cancer.前者はオーストリア人による甲状腺・副甲状腺疾患の画像診断についてのオーヴァービュー。後者は直腸癌の演題が集まっていたが、その中ではミュンヘン発の"Ultrahigh spatial resolution MR imaging and T2 quantification in rectal carcinoma"が特に目を引いた。摘出直後の手術標本を用いた in vitro の画像診断ではあるが粘膜・粘膜下層・輪状筋・縦走筋がルーペ像と同様に描出されていたのは圧巻であった。その客観性、診断性はEUSを凌ぐであろう。


これらを終えてホテルに戻り、蘭と撤収準備。帰国便は夕方なので時間の余裕はある。支度がひと段落したのが午後一時ぐらい。チェックアウト前10分にふと蘭と目が合ってテレパシーの会話、気持と肉の交わりが合一し短い時間ではあったが溶けるように一つになれた。トランクケースを預けて観光へ出かける。


向かった先は王宮、ガイドブックから国立図書館に行くことは既に決めてあった。シュテファンプラッツで記念撮影をした後、王宮に辿り着いたはいいが肝腎の図書館の場所がわからない。建物の中の明らかに違うような場所を上ったり降りたりしながら係員に聞いて、ようやく別に入り口があることがわかる。親切に地図の説明もしてくれた。そこへ向かいがてら王宮内を散歩。本日も春の陽気で、中庭には多数の人が居る。そこで写真を撮ったが、途中でその写真を見せたら蘭の機嫌が悪くなった。当方としては背景とのバランスを考えていたつもりではあったが、自分が端の方に写っているのは許し難いと言われた。そこで蘭を真ん中左より1/6に据えて撮影。散歩しているうちにのどが渇いたのでCafe Hofburg にて一服。非常に高級感あふれる?内装で、店内にはまばゆいばかりの日差しを浴びていかにもウィーンらしい調度が輝いていた。

それに従って、皇帝フランツ一世の彫像の脇などを通りつつ図書館へ。


入り口で入場料を払い、中に入る。内装はバロック様式で前後左右、2-3Fの高さに多くの図書が収められている。天井の絵画はカール6世の誕生を表した物だそうだ。




蘭の要請に応じてその写真を撮る。四方には胸像と地球儀。この厳然とした空気の中にいると、蘭と二人で時間や空間を越えた、埒外に漂っているかのような錯覚を覚える。ここはまさに知のコスモスで、かつては帝国のあらゆる知識が一堂に集められた場所なのだろう。しかしこの図書館にはそれと同時に奇妙な蔵書も多数あるようだ。例えば…ヨーゼフ・キュゼラークの徒歩旅行、正式には「ウィーンよりシュタイアーマルク、ケルンテルン、ザルツブルク、ベルヒテスガーテン、チロル、ばいえるんを歩き通し、その後、ドナウ河を下って麗しの帝都に帰りついた徒歩旅行者による、ロマンチックで絵のように美しい描写を交えつつ、つとめて冷静沈着に記述された一八二五年の見聞記」という本もある。当時の世相風俗が書き留められており先年復刻本が出た。国立図書館は旧ハプスブルグ宮廷図書館であり、15世紀のフリードリヒ三世のころから収集されている。眉唾な本もたくさんある。「太古からの女の髪の結い方」ラテン語の本(図は一つも無い)、1000ページに及ぶラテン語の大型本「水の飲み方」、17世紀の「飛行についての書」、「死者のための食べ物」などなど。入って左側にはローマ帝国時代にさかのぼるウィーンに於ける郵便について記してある古書が展示されていた。撮影しようとしたら警備のおじさんにとがめられた。

図書館を出ると本屋があって、少し立ち寄ってみた。中は煙草の煙の匂いがする。ディスプレイには解剖学書などもあった。さらにいくと国立オペラ劇場があり、向こうには「ホテル・ザッハー」の看板。ついに念願のザッハー・トルテをテラス席で味わう。たっぷりとしたクリームと甘いチョコレートケーキ。オーストリア人は甘いものが好きだというが、私にはとても一個完食する気にはなれない。


隣にはECRの学会バッグを手にしたグループがいた。日は既に傾き、ついには空港へ向かう時間となる。リンクを回る路面電車に乗りホテルへ戻る。この頃には既に蘭も地理を把握していて、どこで降りたら近いか教えてもらった。電車はゆっくりと議事堂などを過ぎながら運行する。ホテルに着いて、トランクなどを受け取り空港へ向かう。途中の飲食用に、近くのスーパーでビールとサンドイッチを買いWienmitte からCATに乗り込む。意外に乗客は多く、中には学会バッグを持っている人もいる。なにより激しくうるさい。主に聞こえてくるのはスペイン語で、強迫観念に駆られたかのようにしゃべり続けている。やがて列車は空港へ到着、ウィーン離別まであと少しだ。
途中の読みものに、とTIME欧州版を買おうとしたら蘭に「今必要なの??」と咎められてしまった。

この後の記述には多くを裂くまい。飛行機は無事に離陸し、深夜のシャルルドゴールへ。疲れ切って日本行きの搭乗口へ向かうとやはり日本人が多かった。のどの渇きを覚え、途中の売店で水を買おうにも高いのしか置いてない。しょうがないから去ろうとすると、黒人の厳つい店員にhei!と声を掛けられ「高い」水の入ったペットボトルを投げて寄越された。…あまりに哀れに見えたのだろうか。それでもこの異国の地ではその親切心が身にしみる。

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気が付けば成田空港、蘭の住まいの最寄り駅。わずかな期間なのに和食が恋しく二人して立ち食いそば屋へ。
かくしてここに至りようやく旅の終わりを実感した。Final conclusion - 最終結論までは有余はあったものの、実質的にはこの時点で全て終わっていたのであろう。さようなら、蘭。